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アソシエイトレポート 2025年5月

再会の場 ~隊員時代の任地タイ、メーサリアンのお葬式~

小熊 誠
プロジェクト業務調整員、タイ王国

私は、1994年から1996年まで、タイのメーホンソーン県メーサリアン郡にある山岳民族センターで野菜隊員として2年間を過ごした。いわば、私の青春時代をタイの山奥で過ごしたことになる。当時は、携帯もインターネットもなく、今も私とFacebookでつながっていたのは、2歳年上の同僚であり、下宿先の大家でもあったウライ姉さんと、数人くらいであった。

4月4日(金)、突然ウライ姉さんのFacebookに、タグ付けされた投稿がたくさんアップされていた。きれいな顔写真に、悲しいねのスタンプ。さらには白黒の顔写真までアップされている。すぐに、タグ付けしていた山岳民族センター職員のオムさんにメッセンジャーで連絡を取ってみる。

すると、今朝、お孫さんをバイクで小学校に送り届けに行く途中、交通事故に遭い、お孫さんと共に天国に召されたとのこと。なんということか。そして、『お葬式は一週間後の11日、クマは遠いところにいるから、来なくてもいいよ』とメッセンジャーには書かれていた。

4月7日(月)、8日(火)、9日(水)と出勤するも、バンコクからメーサリアン行きの長距離バスの運行状況をインターネットで調べ続けていた。ちょうど、ソンクラーン(タイ正月)が近づいているため、帰省ラッシュで4月7日(月)から15日(火)まで全て満席。元赴任地メーサリアンに行くには、バンコクからメーサリアン行きの長距離バスで15時間乗るか、バンコクからチェンマイまで飛行機で1時間20分飛び、チェンマイからメーサリアン行きのバスで4時間半乗って行くしかない。11日(金)のお葬式に出るには、10日(木)にはメーサリアンに着いていないといけない。もう考えるのは止め、10日(木)の第一便(5時半発)に乗って、チェンマイまで飛ぶことに決めた。

4月10日(木)、早朝3時半にアパートを出て、ドンムアン空港に向かい、5時半発の第一便に乗り、7時にチェンマイ空港に到着した。

チェンマイ空港からは、タクシーでチェンマイバスターミナルに行き、すぐさまメーサリアン行きのチケット売り場に行ったが、今日はチェンマイからのバスも全便満席とのこと。困っていると、一人の男が近づいてきて、人が集まり次第、車を出すので、2時間待ってくれと言われる。いわゆる白タクである。

そして、2時間待っても男は現れず、2時間半経って聞くと、今日は人が集まらないから行かない。チェンマイ門からホット行きの乗り合いバスがあるから、それに乗れと不愛想に言う。しょうがない。それで、チェンマイ門までタクシーで行くと、エアコンもない、おんぼろローカルバスが止まっていた。いつ出るかと聞くと、30分後と言う。ホットには何時に着くかと聞くと、昼としか答えない。いつ出るか、いつ着くかも気まぐれだが、他に行く手段がないので乗るしかない。

バスは、道端で手を挙げる人がいたら、人を乗せ、客が降りると言えば、降ろしていく。バス停で停まる路線バスではなく、自由気ままなローカルバスである。それでも、隊員時代の旅のようで面白い。2時間くらい、ローカルバスに乗り、終点のホットに着くと、ここで降りろと言う。

メーサリアン行きのバスは?と聞くと、あそこで待てと言うので、バスを降りた。あたりの人に聞くと、メーサリアン行きの車はバスかと思いきや、ピックアップトラックの荷台に乗るソンテウであった。ソンテウで100㎞の山道を2時間か、首と腰が痛くなりそうだ。狭い荷台のソンテウの乗客は、バンコクやチェンマイでは見ることのないカレン族の服を来た人たちばかり。久々の山の感覚だ。段々故郷に帰ってきたという感覚を覚える。

ミャンマー国境近くのメーホンソーン県メーサリアン郡
メーサリアン行きの車(ソンテウ)
ソンテウの乗客、カレン族のお姉さん

ホットから山道を2時間近く走り、終点メーサリアンから20㎞手前のメーホ村にメーホンソーン県山岳民族センターはある。木曜日ということもあり、誰かはいるだろうと思い、降りてみる。

少し歩いて、元の配属先に行ってみると、隊員時代からいた公務員ではないカレン族のアシスタントたちがいた。「おーっ、どうしたんだ!」と言うので、ウライ姉さんのお葬式に来たと言うと、ウライさんの家まで送ってやるから、まずは飲んで行けと、ビールを差し出してくれた。

山にある配属先は鳥の声しか聞こえないくらい静かである。ビール2本、飲み終えると、ウライ姉さんの家まで送ってくれると言うので車に乗る。山岳民族センターからは、ひたすら山を下り、20㎞の距離だ。

山を下りて、17時。メーサリアンの街だ。隊員時代、下宿していたウライ姉さんの家の前まで行くと、棺桶が二つきれいに飾られ、置かれている。さらに奥に入ると、ウライ姉さんのお姉さん、チャン姉さんがいた。チャン姉さんは山岳民族センターの職員ではないが、当時寝食を共にしたお姉さんだ。久しぶりの再会に、お姉さんは喜んでくれ、お互い顔を見るなり、涙が溢れ出た。さらに、奥にはウライ姉さんの旦那さんや、当時1,2歳だった息子もいた。皆、悲しみにくれ、憔悴しきっている。

メーホンソーン県山岳民族センター
隊員時代からいるカレン族のアシスタント
メーサリアンの街並み

「近くのゲストハウスを予約してあるから、チェックインして来なさい」とチャン姉さんに言われ、ついでにメーサリアンの街を散歩して、18時に家に戻ってきた。しばらくすると、参列者全員で和やかに夕食が始まった。

メーホンソーン県山岳民族センターで一緒に働いた職員の人たちとも再会。メーサリアンにいる人もいれば、チェンマイから来た人もいる。そして、歓談。その後は、家族一同、棺桶の前で写真撮影。下宿をしていた私もその中に入れてもらえた。

次に、メーホンソーン県山岳民族センター職員一同で写真撮影。久しぶりの再会にも、家族同然のように受け入れてくれる。本当にありがたい。ウライ姉さんとお孫さんは、4日(金)に逝去したため、自宅で一週間遺体を安置し、翌日火葬となる。

メーホンソーン県山岳民族センター職員一同
1994年当時の山岳民族センター所長(中央奥)
ウライ姉さんとお孫さんが眠る華やかな棺桶

4月11日(金)朝8時に家に行くと、チャン姉さんが早速飲み物を出してくれた。参列者が来るのを待ち、お坊さんらによる読経。そして、再び皆で会食。昨日よりも多くの人が来ている。

11時、皆が落ち着くと、お坊さんを先頭に、家から棺桶を載せた二台の山車を皆で引っ張り、火葬場まで行く。距離にして3㎞くらいだろうか、心なしかお別れの時間が迫って来ていることを感じる。

火葬場に着くと、また読経。そして、グループごとに全員で献花。献花を終えると、奥の火葬場に移動。ウライ姉さんは火葬炉内に、お孫さんは屋外の火葬場だ。棺桶内に眠るウライ姉さんやお孫さんへの挨拶を終えると、程なくして着火。

お孫さんの棺桶は、子供は楽しく天国へという配慮なのだろうか、たくさんの花火がくべられ、大きな花火の音と派手な光が放たれている。しばらくすると、花火のパチパチという音も消え、皆静かにそれを見守る。時刻は14時。誰が何と言うこともなく、三々五々、退散し始める。

お孫さんの棺桶は、子供は楽しく天国へという配慮なのだろうか、たくさんの花火がくべられ、大きな花火の音と派手な光が放たれている。しばらくすると、花火のパチパチという音も消え、皆静かにそれを見守る。時刻は14時。誰が何と言うこともなく、三々五々、退散し始める。

家から火葬場へ移動する山車
火葬場まで引導するお坊さん
火葬場

ある人は、地元メーサリアンの自宅へ、ある人はチェンマイへ。私は17時のチェンマイ行きのバスに乗るため、ウライ姉さんの家に戻り、待つことにした。家では悲しみにくれ、火葬場にも参列できなかったチャン姉さんが待っていた。

「クマ、よく来てくれたね。ありがとね。これからどうやって帰る?」

「昨日、17時発のチェンマイ行きのバスのチケットを買って来ました」

「それなら、30分待って。15時になったら、姪がチェンマイまで帰るから、それで帰りなさい」

サトウキビのジュースを飲んで待っていると、姪っ子が帰って来た。いよいよお別れの時だ。ウライ姉さんの旦那さんにもご挨拶。

「バンコクからわざわざウライのために、来てくれてありがとう。また、落ち着いたら、我が家に遊びに来てください」

最後に、私が下宿していた部屋を見せてもらった。今は、チャン姉さんの服置き場となっていたが、窓枠や木の壁は全く昔のままだ。

1994年4月、協力隊で赴任した頃、ウライ姉さんの家を間借りし、下宿させてもらった。朝は職場のトラックが家まで迎えに来て、ウライ姉さんと一緒に出勤。帰りも職場のトラックでウライ姉さんと家まで戻り、夕食はウライ姉さんやチャン姉さんと一緒に食事。

職場でも一緒、家に帰っても一緒。今思えば、お世話にばかりなっていた。タイ語もできない私をよく受け入れてくれたものだと本当に感謝するばかりだ。本来であれば、お葬式ではなく、普通に里帰りしないといけないのに、ウライ姉さんに感謝することもなく、お葬式でのご挨拶となってしまった。

31年ぶりの里帰り。隊員時代お世話になった山岳民族センター所長(すでに80歳過ぎ)を始め、職員の皆さんや、下宿先のウライ姉さん一家にも会うことができた。お葬式で帰った任地、隊員時代下宿したウライ姉さんの家は、まさしく自分にとって青春時代を過ごした故郷の家と感じることができた。

『ウライ姉さん、ありがとう。お孫さんと共に、安らかにお眠りください。本当にお世話になりました』と、心の中から言葉が湧き出るばかりだった。

1994年隊員時代、ウライ姉さんと過ごした下宿
在りし日のウライ姉さんとお孫さん